質疑と議会改革―その4

 本会議での質疑が終わると、議案は2つの委員会に分けて付託され、翌日から1日づつ審議されます。全議員は、総務福祉と文教経済のどちらかに属することになっています。
 予算審議は課別に行われます。決算審議と同じように、課の構成員が部長のもと、大名行列のようにぞろぞろと参集し、課長、部長の説明が行われるときは、その横の控の席に全員が着席して待機します。必要な時には、課員が担当事業を説明することがありますが、めったにありません。
 課員のどれだけの人が来ているのかは分かりませんが、多数が参加することは、どんな質問にも直ちに答えられるよう動員するためだと思います。決算審議の時には、給食の皿洗い機の更新に関係して更新の理由を聞いたとき、金属製のお盆か何かを持参し機械に引っかかる不具合が発生することを説明された時には、なるほどなと思いました。しかし議員側の質問がそれほどあるわけではないので、着席と同時に立ち上がることも多い。
 議員からの質問が少ないことを問題にする前に、予算審議の問題があります。
 1 予算の編成と提出の権限は市長にあることが地方自治法で決められている。
 2 議会が議決しなければ予算は執行できないのだが、それはまず起こらない。
 3 予算の修正は議会に認められているが、それはほとんどない。
 「ないない」づくしだが、大体、議員から有効な質疑が出ないわけだから、否決や修正が起こるはずはない。それでは、議員からなぜ有効な質疑が起こらないのか。
 1 まず不勉強。私も含めてだが。しかしわずか10日で約300ページの予算書を読み込み、質疑を作成・提出することは相当きつい作業であることも事実。普段から勉強しこれに立ち向かっていく情熱とエネルギーがあるかどうか、議員を見分ける一つの尺度にはなります。
 2 予算書の記述の仕組みが「款・項・目・節」の霞が関のお役所仕様で複雑である。経年比較をしようとすれば、前年の予算書や一昨年の主要な施策の成果説明書を並べなければならない、思い付きではなくタテヨコの比較を真面目にして読み込みをしようとすると、とてつもない時間と労力が必要です。

 3 結局、思い付きの域を出ない質疑を行い、その結果の委員会報告も内容乏しく、本会議で形式的な審議を経て予算案は議決されます。
 決算審議と構造は同じです。議会は、現状の仕組みとして予算審議(決算審議も同様)が十分にできない構造に安住してしまって、議員個々の不勉強も意識されず、返って、その状態を維持していこうとする集団意識が働きます。改革意識など働きません。
 市長部局も結果として同床異夢。正にこの言葉がピッタリのような感じがします。議会の中身のない質疑をこなすことなど御茶の子さいさい。適当にあしらってやり過ごせば、自分たちがやりたいようにやれる予算は成立します。協働、市民参加と言いながらも、こちらも市民参加条例に沿ったことを慣習的にこなしていれば安泰という意識でしょう。
 市民の要望が反映しない、事業、制度に変革が見られない状況の中で、不勉強な割に高額な報酬を得ている議員に怒りの矛先が行くのは当然です。一方で、議会の無能力をいいことに行政改革を行わず、既得権益と安定報酬に満足している行政にも批判の矢は放たれます。
 この状況は、批判される地方議会の現状を意識しながら書いたものだが、質疑の問題を通して、その流れは日高市政にもはっきりとあることが分かります。その源流の先に、最初に書いた、制約される質疑の問題に行き当たります。ここに議会と行政の暗黙の癒着、呉越同舟があり、それは「一般質問でやれ〜」という声に表われています。
 市長の市政方針と予算編成方針を議会が一度も質すことなく、3月議会が終わるとしたら……。
 市長が一度も声を発することなく、3月議会は終わるとしたら……。
 こんなことがあっていいのか、と思う。
 今この時期、確定申告で3階に市民が上がっていきます。エレベーターに乗り合わせた中年の方が私に軽く会釈。知っている人ではありません。降りる際の自然な身のこなしでしょう。その方を見て、忸怩たる思いを振り切りました。