浅野氏の講演から感じたこと

 浅野氏は、まちづくり、環境保全活動には30代の早くから関わってきましたが、それは机上の提案活動でした。実際の運動に身を投じるのは、95年、西武鉄道天覧山多峯主山一帯に計画した住宅開発計画を契機としてでした。
 そして計画変更を求める署名運動、地方自治法に則った直接請求運動へと突き進み、それを元に市民提案の条例案を議会に提案するという、全国でもほとんど例のない大運動を展開しました。その時の署名数と直接請求による条例案市民運動の歴史に残るものとして評価されますが、議会に否決され、行政の壁は厚く、運動の成果は絶望的でした。そういう時、オオタカの巣が発見され、環境庁や埼玉県を相手に粘り強い交渉を続け、最終的に西武鉄道の計画中止に至ったのでした。



――活動の拠り所であり市民に知らせる広報紙「やませみ」。特徴あるイラストが魅力的です。この制作はプロのデザイナーが行い、遠隔地に移った現在でも継続しているそうです。バックナンバーを会場入り口に掲示しました。――


 この間の経緯を浅野氏は淡々と話されましたが、運動参加者への中傷と脅迫は熾烈を極め、多くの人間模様があったことに触れていました。しかしそれに潰されなかった核となる人間が数人いて、浅野氏もその一人でした。穏やかな人柄と物言いですが、浅野氏のまちづくりと環境保全への姿勢には、確固とした哲学・思想を感じます。
 署名運動や条例案作成の過程で行った、自然観察会や市民運動の勉強会は多くの知識と経験を育みました。03年に発足した行政による「はんのう市民環境会議」。浅野氏は行政の“ブラックリスト”人間でしたが委員に任命され、環境保全に一時代を画すことになりました。浅野氏の経験が公的に生かされる舞台ができたのです。
 開発を中止した西武鉄道天覧山多峯主山一帯の保全を打ち出し、企業として環境重視の社会的責任を打ち出しました。運動の外部環境の変化としては、やはり最大の要因でした。
 市民も谷津保全に協力し、行政もいっしょになった協働の環境活動の仕組みが作られました。またそれと並んでエコツーリズムが脚光を浴び、飯能市は環境と経済の両立を目指すモデル都市になりました。浅野氏は、現在、環境保全エコツーリズム両面から協働に参加し、経験が花開く、と言ってよい状況にあることを感じました。
 対立から協働までの歴史をスライドで見、浅野氏の説明を聞きながら、私はいくつかのことを感じました。たくさんの要因がありますが、特に印象に残ったことです。
・運動を担っていた主力の人間が、飯能の地元出身であったこと。
・浅野氏という「無私の精神」を持ち、かつ建築・環境に詳しい地元人間をリーダーに持ったこと。
・まちづくりを話す超党派の“たまり場”が市内中心部にあり、求心力を保ったこと。
・トラストの考えが早くから、意識ある人々に普及していたこと。
 これらのうち、地元という要素が結構大きいことがわかります。これは、意外に見えない大きな要素かな、と思います。これらの人間が集まる中心市街地が、旧市内を中心にまとまっていたことも見えない要因かもしれません。これらまちの構造と人の分布は、市民運動の自己回転力としての力なのかもしれません。直観的なことですが。
 さて日高市には、私が感じたことに対応することがあるだろうか、と考えます。少なくとも、ざっくばらんに何でも話せる場所があれば、と思うのは私だけではないと思います。議論が線香花火のようにポッと出ては消えていっています。
 浅野氏の話で出てきた、イデオロギーを超越して地域社会のことを考え、議論し行動していく場は、平成元年(89年)に発足しています。今から10年前も前のことでした。その名前も「フリーステイション」。
 トラストのことは非常に重要です。また別途書きます。