浅野正敏氏講演を企画した思い

 23日は、かねて予告していた浅野正敏氏の講演会(『身近な自然を守り、未来へつなぐ―天覧山多峯主山を一体の保全活動』)でした。

 浅野氏については、プログラムを作成する際、少し詳しい紹介をしようと思い、急遽、浅野氏自身によるプロフィール原稿を依頼しました。その内容です。

 「1950年埼玉県飯能市生まれ。工業高校(建築科)を卒業後、建築設計事務所に勤務。一級建築士を取得後、1979年独立し浅野設計室を開設、現在に至る。30代に「飯能を考える建築家集団」を結成し、まちづくりの提案を行うなど積極的に社会参加を始める。1993年に、飯能河原の景観を壊す高層マンション建設を中止させる署名運動を展開、1995年には、天覧山裏山一帯に計画された大規模分譲地の変更を求める市民運動に関わり、「自然を守る会」の代表となる。
 建築家として環境問題を見つめる中、1998年(48歳の時)大学受験をし、多摩美術大学「環境デザインコース」の社会人学生となる。2004年、同大学大学院美術学研究科修了。「森と街、自然と人をつなぐ」をテーマに環境(歴史・文化・自然)保全とまちの活性化に努めている。
 NPO法人天覧山多峯主山の自然を守る会代表、木馬を作る会事務局、(社)埼玉県建築士事務所協会まちづくり委員会委員長、(社)日本ナショナル・トラスト協会評議員飯能市エコツーリズム推進協議会委員、はんのう市民環境会議自然環境部部長、埼玉県まちづくりサポーター、ほか幅広く活動中」

 浅野さんと講演前の打ち合わせを行った時、私は浅野さんの建築家としての仕事に関心があったので、いろいろうかがいました。
 くぎを使わない伝統工法の建築を手掛けていること。また講演をお願いに伺った時の話では、非常に寡作らしいことも。また伝統工法なるがゆえに、現代の鉄筋を前提とした耐震基準の対象になり得ず、国交省などとの折衝を行っているが苦労していること。浅野氏の紹介を行う時、これらの話も折り込みました。
 プロフィールに書かれていますが、天覧山多峯主山保全運動に係る以前、93年に浅野氏は飯能河原の景観を壊すマンション建築中止活動を行っています。これらの環境問題に関わる中で98年、浅野氏は48歳の時、大学の建築コースに入学し大学院を終了されています。浅野氏は非常に穏やかな方ですが、これらの経歴から不屈の精神がうかがえます。 
 私自身の講演に先立つ挨拶では、私がこの企画を思いついたこと、浅野氏とお会いすることは積年の希望であったことを話しました。
 32年前に飯能で大規模な開発に反対する環境運動が行われていることは当時、知っていました。そのことは1980年に刊行された『緑のまちと市民たち』という本に詳しく報告されています。この運動は当時、全国的にみても革新的で注目されていました。私は、この本を出版されてすぐ購入し、現在も折に触れてページを繰っています。
 その後、95年頃、再び飯能で環境保護運動が再燃し、その活動については『やませみ』という特色ある広報紙で知り、2000年発行の24号を先の本といっしょに大事に保存し手元に置いていました。
 私はこの一連の環境運動が同一主体で行われているものとばかり思っていました。団体名を見れば「天覧山付近の自然を守る会」(80年)「天覧山多峯主山の自然を守る会」(95年)と違うので、異なることがわかるのですが、同じと思いこんでいました。
 飯能の環境運動には、担い手の変化で分かるように2段階あるわけです。この連続性と95年以降の運動の経過については、平成17年に浅野氏が文化新聞に20回にわたって連載した記事に詳しく書かれていますが、私はその記事は読んでいませんでした。
 ともかく浅野氏に会って運動の経験と知恵を伺うことは私の念願であり、それを講演会という公開の場で聞けば多くの人にも参考になるだろうと思ったのです。
 浅野氏は、私の意を汲んでくださり、また無償での講演のお願いでありましたが、快く引き受けてくださいました。
 そしていただいたタイトルが、『身近な自然を守り、未来へつなぐ―天覧山多峯主山を一体の保全活動』です。