青山善光寺



  ここの所、毎日打ち合わせで神宮前に来ています。夜であったり、急いでいたりで周囲に目が行く余裕が無かったのですが、昼頃、予定が終わり昼飯を食べようとブラブラしていました。  
 南青山の神宮前交差点から原宿方面。世界のブランドが軒を連ねています。交差点を北青山方面に3、40メートル行くと左に入る道があり、その先すぐ目の前にお寺の山門が見えました。その先に大きな本堂が見えます。
 青山善光寺。神宮前交差点のすぐ裏手にこんな大きいお寺があるとは知らなかった。学生時代は交差点から左折して原宿方面に向かうのが常だったから気がつかなかった。
 境内に入ってみると相当な広さだ。山門をくぐると右手に鐘楼、中央の本堂の右手に大きく立派な木造建築の庫裏がある。本堂と庫裏の間の奥にはやはり大きい建物が見える。山門左手から本堂左手には広い墓地が広がっており、墓地に接して表参道沿いの世界のブランドが入るビルが建っています。山門は両側に仁王様が入っている。
 酷暑の日の午後、境内はシンとしており、セミの鳴き声だけが聞こえる。喪服を着た老夫婦がよろよろと歩きながら花を手にして墓地に入っていきました。
 墓地の向こうののビルの中はニューヨークファッション、道路の向こう側には重厚な構えのグッチのビル。さんざめく人の流れと車の喧騒はここまで届かない。空気が乾いているせいかこの都心でも湧き上がる夏雲がくっきりと見え、木陰の石に座ってぼんやりと見ていると、大きな仕事が終わる安堵の気持ちも加わって心地良い。
 境内に、江戸末期蘭学者である高野長英を同郷の人々が敬い偲ぶ石碑があった。石に刻まれた碑文を読むと、長英はこの地で非業の死を遂げたとある。長英と石碑を作った人々の故郷は岩手県水沢であった。
 高野長英は、長崎で蘭学を学び当時最も活躍した学者であった。江戸幕府の外国船排斥を批判して捕らえられたが、脱獄し身を隠しながら各地を転々とした。青山で医者を開業していたとき再び捕えられ死亡。抵抗しての最後であり文字通り非業の死であった。高野長英の時代を見る目と批判精神は多くの作家の題材になっている。
 これほどの大きな伽藍を持つ寺のことだから相当の由緒だろうと思って何か案内があるかもと思って探したが何もない。そこで庫裏に行けば何か分かるだろうと玄関に立ってガラス戸越しに中を伺うと先客がいた。雰囲気からすると老婦人は檀家のよう。
 話が終わるのを待つついでに玄関周りを眺めていると、目に飛び込んできたのは自民党の某大物政治家の顔が全面に大きく印刷されたカレンダー。受付の後ろのつい立に貼られ玄関入り口に向けられている。
 何か面白い風景を見た印象である。玄関周りは普通の家でも気を使うのが常。これはこれで、この寺のセンスであろうと思った。来意を告げると、寺を紹介する立派なカラーカタログが黙って差し出された。これは有難い、どこにも由来が出ていない代わりに、寺の詳しい歴史が書かれた16ページのパンフレットが頂ける。
 読もうと思い、今度は仁王様の後ろにある鐘楼の階段に向かったが、こちらも、魔法瓶を傍らに置きタッパーの弁当を広げている若い女性の先客がいた。反対側の鐘楼を囲む縁石に腰を下ろす。
 青山善光寺は法然の浄土宗のお寺で、もともとは信州善光寺の江戸の出先であったが徳川将軍の庇護を受けて大伽藍に発展した。明治維新となって後ろ盾を失い寺の維持に苦労した歴史が書かれている。都心の一等地、檀家の経済力も相当なものであろう。現在の建物はすべて戦後の建築、私が大学を卒業した年に本堂が完成している。
 静かな境内に惹かれて散策したが、幕府の寵愛を受けたお寺に、幕府によって殺された蘭学者の石碑があり、その出身地が水沢であることから今をときめく虚像肥大化症候群の政治家を思い浮かべたり、某大物政治家の顔を拝顔する羽目にもなってしまった。心安らかに休息ということにならなかったが、都心で思いがけず見つけた仏様の居場所は貴重である。
 パンフレットの最終ページ「終わりにあたって」にこうあります。
「この青山善光寺は、誰もがしばし社会の喧噪を離れ、座して御仏様と語り深く静かに思索する場となっております。どなたにも門戸を開いているこの善光寺では、一光三尊仏の光を一人でも多くの方に感じ取っていただければと念じております」