市民不在の無投票――新議会での議題提案

 友人の永友和義さんから、新議会において議論すべき下記のような提案(けい線で挟んだ部分)をいただきました。永友さんは、私が代表をつとめさせて頂いている「日高を変えたい市民の会」のメンバーでもあります。
 永友さんは、日頃から議会改革について熱心に議論されており、今回の無投票となった市議選を市民不在としています。

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 ひとつお願いがあります。
 これからの議会開会の最初に『無投票当選』が何を意味するのか、議場で議論していただけないかということです。
(議員一人一人の意見でもよいと思います。)これは、議員としての観点からでなく、あくまでも、市(選挙)民の観点からの議論です。これが実現すれば、おそらく全国初ではないかと思います。

 『無投票当選』は、首長選挙おいても、市(選挙)民不在です。この選ぶ権利を与えないことを、民主政治、民主主義の観点からも、どうするのか? ということです。
例えば、
・候補者数が定数以下(定数を含む)の時は、立候補者全員について、信任投票に切り換える。各候補者毎に、『信任す る』、『信任しない』を両方、投票させ(信任の欄に○、不信任の欄に○又は×でもよい。必ず両方記入させる)、  『信任する』が、『信任しない』を上回った時、信任(当選)とし、逆に下回った時に、不信任(落選)とする。この  時、不信任などにより、定数を下回ることが起こり得るが、下回ったままでいくか、補欠選挙をするかも整備してお く。
・又、県議選の投票率をみてのとおり、市民の市政への関心が低いことだけは間違いない。
・或いは市政への不信かもしれない。
・或いは又、先の議会で定数削減が否決されたが、議員定数は適正なのか?もあろう。もし、定数削減が可決されて  いたら、おそらく投票になっていたでしょう。

 いずれにしても、選挙制度を改めるなり、選挙条例を作るなりして、現状を改革することが必要ではないか。要するに、選挙民を無視する事態をどう救済するのかということです。今までこの事態に、何ら留意すること無く、誰も気付かず、多くの事例が見過ごされて来ました。
 選ぶ権利と義務は、民主主義や民主政治の原点だと思うからです。
 よろしくご検討下さい。
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 以上、貴重な提案です。
 私は、新議会で「無投票当選」の意義について議論の場を設けることに関しては大賛成です。それは是非とも実現したい。この議論をガチンコで行うことで、現在、漠然と蔓延する議会への不信を少しでも和らげることができ、二元代表制や地方主権に対する認識が増すのではないかと思います。


 新任投票は選挙に代わる方法として当然考えられますが、有権者が判断材料を得る仕組みが課題となると思います。それは現行の選挙制度についても同様ですが、制度の設計からの根本的議論となると思います。改革の糸口として、選挙制度はいつかは議論しなければならないことで、それを日高から狼煙を上げることは大いに意義があります。


 定数削減は、現在、各地の自治体でで実際に条例提案されて実行されています。しかし、議員提案による条例で議会で可決という方法に安易に寄り掛かってしまっていいのか問題です。それを主張することによって、「市民不在」という自己撞着に陥ってはいないでしょうか。
 “働かない”議会、“役割を果たさない”議会への不信は、議員の待遇や数という数値的に分かり易いところで、大衆的制裁を加えるという雰囲気になりがちです。それはストーレートな分かり易さを伴いますが、しかし、市民全体で担わなければならないこれからの民主主義を考えれば、ここは踏みとどまって考えるべきです。ボーダーライン上の少数意見の切り捨てという問題もあります。
 議会不信あるいは個々の議員に対する不信に対して、自分たちも身を削るとして挙げられる削減数にどれだけの客観性、説得性があるのかも疑問です。もちろん合併などによる補正は別ですが。
 いずれにしろ、民主主義の根幹である意思決定の仕組みまで、有権者は議員に委ねてしまっているかと言えば、そうではないと思います。選挙制度の改革も並行して必要ですし、市民も参加する時間をかけた議論が必要です。


 各問題に関しては、学問的議論もあると思いますが、私の感じていることを書きました。制度の改革もさることながら、やはり、議員として「公共への奉仕」をどう実行しどう表現するか、日常の心がけと行動すなわち有権者との対話が基本にあると思います。
 それらを総合しての永友さんの提案の趣旨については大賛成なので実現させます。