原発の“想定外”

 中国は、快適で物質的満足を満たす生活を追う国民の要望に応えるため、今後、原発を50数基(あいまいな記憶だが)建設するという。恐ろしいことです。私は本当に恐ろしいことだと、この建設計画を新聞で読んで密かに思っていました。
 中国は地震国で、四川省地震は記憶に新しい。偏西風は、黄砂を日本の広い範囲に運びます。もし中国で原発事故が起こったらどうなるか、その影響が及ぶ範囲は日本の大半の地域です。そうなったら日本国民は、国を捨てなければならないでしょう。
 荒唐無稽ではない現実の可能性が出てきました。その時は人類の破滅となるのかもしれない。国連も日本国家も、こんなリスクは想定していないと思います。もし起こってしまったら「想定外」という言い訳を聞きながら、死んでいくのだろうか。
 いま世界が原発容認になってしまいました。恐れなき人類の不遜に対する警告かもしれない。40年前は、あれ程原発論争があったのに、いまは全く皆無になってしまいました。どこに行ってしまったんだろう。技術の社会的影響を発言している一部のジャーナリストは、批判の姿勢は崩していませんが、マスコミは一切触れ無くなってしまいました。
 みなお金でおとなしくなってしまったのです。政府が出す原発の広報費用は、毎年、何百億円とありました。今では、原発容認で世論を完全制覇してしまったのでこんなにあるのか分かりませんが、以前は、とにかく大変な予算を使って言論対策、マスコミ対策を行っていました。
 私が担当編集者だった原発礼賛本もそうでした。発行部数の大半を買い上げてくれる、おいしい企画で、出版社にとっては即資金繰りに役立つ出版だったのです。本の刊行に、雑誌広告ページの買い切りに、有名人や評論家の接待に原発広報予算は湯水の如く使われ、そして、原発にもの申す雰囲気は無くなり、反原発論者は書く場が無くなっていったのです。
 そして原発は当たり前のこととなった。