30数年前の本に愕然

 原子力災害の恐ろしさが現実になりました。チェルノブイリとスリーマイルという人類にとって過酷な経験があるのに、私たちは、それを意識の隅に追いやり、快適な生活を追い求めてきました。誰の責任でもない、私たち自身の選択の結果でもあるのです。
 40年前の昭和46年(1971)3月26日、福島第一原子力発電所の1号機の営業運転が開始されました。いま、原子炉の建屋は爆発で破壊され、タービン室の下にたまった水から万倍の放射性物質が検出されました。また、排水口近くの海からも高濃度の放射能が出ました。
 35〜40年前だったと思います。今では考えれないくらいの原子力是非論争が日常的に日本全国で巻き起こっていました。原子力、是か非か、反原子力の学者も文・理を問わず、多彩に存在していたような気がします。
 私もそのころ、この関係の本を読んでいました。最も印象に残ったのは、袴田敦『石油と原子力に未来はあるのか――資源物理の考え方』です。

 この本を本棚の隅から探し出し少し読んでみました。34年前に刊行された本ながら、何とすでに、福島第一原発の欠陥を指摘しています。
 この本の面白さは、そういう具体的な指摘もさることながら、著者の中に突然起こった物理学テーマの発生と変遷および成長が、科学の意味、原子力と人間の関係等の本質的課題を読む者に気づかせてくれることにあります。
 表面物理という“世の中の役に立たない”学問を“誇りを持って研究”していた著者が、ある日読んだ『日本物理学会誌』の核融合特集を読んでその欺瞞にビックリし、猛然と原子力の研究を開始して、2年間で「資源物理学」という新しい学問を打ち立てました。
 著者は、その研究によって、原子力利用と原子力研究が人類にとっての「破滅への片道切符」であることを明らかにしています。物理の本ですから専門的な所もありますが、痛快なまでに原子力利用・研究を学問的にやっつけていく面白さがある一方で、著者の冷徹なまでのペシミストぶりに愕然とし背筋が寒くなる思いなのです。
 いま二つの文章を引用しておきます。


 「化石燃料を使い始めて僅か200年、エネルギーは、人間にとって麻薬であった。とくにこの30年、人類は麻薬を打った時の幸福感に酔い、……麻薬切れに恐怖して人間は、エネルギー亡者となった。禁断症状を恐れる余り、さらに強力な麻薬、新エネルギーを求めようとするなら、もはや中毒から立ち直る機会を失うことになる」


 「いまの世代が生きている間に、破局は来ないかもしれない。しかし、このまま進むと、われわれの孫の時代に、破局が来ないとは保証できない。いずれ、人間も古代生物と同じように死滅する運命にあることは確実だ。……現状のままであれば、きっと孫たちは、私たちを恨みながら死んでいくであろう。これを思うと、私たちは平気でいられないはずだ」

 30数年前私は、あてがいぶちの担当編集者として、原子力利用礼賛の本を編集していました。ゴーストライターが書き、著者は有名な評論家でした。昼間はこの本をつくり、夜は『石油と原子力に未来はあるのか――資源物理の考え方』を読んでいました。
 いま読み返すと、進行する現実が重なって、この本の警告が真実となって迫ってくることを感じます。
 音楽を流しっぱなしにしていたNHKTVが午前3時のニュースを報じました。「福島第一原発の深刻な状態」についてです。今日は、いろいろな用事があるから寝なければいけない。じっくりと、この本を読み返してみよう。
 いま、ふと思い出しました。孫の顔を。