線引きと母性

 各地で飲料水の放射能汚染が問題になってきました。
 東京都の浄水場が汚染されているとのニュースには驚きました。なぜ、福島県と距離的にも離れている、しかも東京の特定の浄水場が汚染されるのか。これが最初の聞いた印象でした。
 汚染された東京都の金町浄水場は、荒川水系の江戸川から取水しています。日高市の水道水は大丈夫なのか。
 日高市の水道水は、埼玉県企業局から約50パーセント、井戸から汲みあげる自前の水が約50パーセントという構成となっています。県からの水は、荒川水系利根川水系と両方混ざっているとされています。
 埼玉県では、戸川水系の庄和と新三郷、荒川水系の大久保(さいたま市)と吉見、利根川水系の行田の5カ所で、水道水中の放射性物質を毎日測定し、ホームページで結果を公表しているとのことだが、日高市の自前の組み上げ水については、採水して分析を業者に依頼中となっています(市HP)。
 それにしても、いわゆる「線引き」の意味を改めて考えてしまいます。
 ある基準値を示すラインの前が安全で、僅かばかりの微量が超えれば安全でなない、ということになります。このラインを決め管理するのは役所ですから、行政としては、安全か否かにかかわらず発表しなければならない。公表しなければ隠ぺいになるからです。賞味期限も線引きの問題でした。そのほか、ありとあらゆる生活の局面に線引きがあり、それを政府自治体が決め管理しているわけです。
 公表の後の、安全でないかどうかを判断するのは学者です。テレビ、新聞に学者が盛んに、微量を超えても健康に悪いことはない、被害は起こらないことを強調しています。
 政府ももちろん、安全であることの強調につとめています。一部の事実が全体であることとなり、風評が“事実”となって社会崩壊し政府機能が崩壊することを恐れます。
 しかし、母親の子を思う気持ちは、どんな理屈より強い。学者が何と言おうと、線引きを超えたことに対する拒否は当然です。人間が作った社会システムの守られた子育てであっても、根本は、子を危険から守る哺乳動物としての子育て本能です。
 こんな線引きなど無い方がいいに決まっています。飲む水には化学処理が施されますから、いろいろな規制の線引きがあります。放射能に関する水質の線引きは、文明的課題です。原発の存在することによる人間生活の基本を線引きの鋳型にはめることは、根本から考え直さなければならないと思います。人間の原初の子育て本能から発想し、社会を作っていくことがいい。
 原発は拒否しよう。