歯医者に行く途中のこと

 東京小石川の歯医者に十数年かかっています。今ではよほど歯が痛むときか年に何回かのケアにいくだけです。最近、虫歯の治療に久しぶりに行きました。
 歯医者に行くには地下鉄茗荷谷で降りて、元の教育大(現筑波大)のわきの坂道を下っていきます。この坂道は「湯立坂」といい、東京にはめずらしくうっそうたるみどりの景観を成しています。ただ樹木があるだけの景観であるなら都心にもいくらでもありますが、ここは歴史を感じさせる雰囲気があります。
 地形的には切り通しの坂で、左の高地にに大学の緑地、右側の高地にに新旧何棟かの邸宅があります。左側の大学の緑地帯は元は江戸期の大名屋敷で、明治以来の日本の高等教育を担ってきた場所です。現在は放送大学の東京地区のセンターになっています。
 右の緑地帯は戦前からの富豪の邸宅で、奥まった高台には古い大邸宅があります。「銅御殿」(あかねごてん)というそうです(地図の大谷美術館とあるところ、黄色い目印)。


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 道路に斜めに面して大きな門があり、一目見て富の象徴的建築であることがわかります。これらの古い建築は、平成18年に重要文化財に指定されました(下の写真)。門の奥、写真の中央の木立の向こうに銅御殿があります。
 道路からかすかに見える建物の屋根の流麗な曲線を、他では見たことがありません。単純な線ながらいつ見てもいつまで見ても飽きません。この美しさの本質については、どうも私の語彙では説明できません。建築上の格別な特徴があるのだと思いますが、そんな知識はなくても「美しいもの」は見た瞬間に魅了されるのです。
 「千葉県の山林王だった磯野敬氏が明治37年から7年の歳月を掛けて御殿を竣工し、その後1年掛けて作られたのがこの大門という。正面に楠の門扉が2枚並んで威厳ある姿を示し、しかも檜の節を巧みに利用した柱の装飾は屋敷の品格を高め、辺りに格調を与えている。
 磯野氏の次に2代目の所有者が石油王の中野貫一氏、そして3代目が実業家の大谷哲平氏と100年近くの間私邸として使われており,その間しっかりと手入れがされていたため今日も尚往時の風格と佇まいを遺しているのだろう」(「」の説明はブログ「湯立坂散歩」http://blog.yutate.com/?cid=37555からの引用です)

 数年前からこの坂にマンション建設反対ののぼりや立て看板が掲げられるようになりました。以前からこの屋敷に隣接した傾斜地が造成途中の状態のままになっており、崖上の民家に大きな建設反対の看板があったので、その動きがあることは分かりました。
 邸宅の塀にマンション建設反対の署名用紙が置かれたり、のぼりの数が増えたり何か動きがありそうな気配だったのですが、昨年から工事が始まりました。
 「銅御殿の隣地に、地上12 階・地下2 階の巨大なマンション計画が進められています。銅御殿を管理・運営する財団法人・大谷美術館、学識経験者らによって組織された「東京小石川の旧磯野邸・銅御殿を守る会」、近隣住民のグループ「杜史を育む会・湯立坂」は、それぞれの立場から、重要文化財と周囲の環境を守るため、マンション計画の事業主・野村不動産株式会社と話し合いを続けてまいりました。しかし話し合いも途中段階にもかかわらず、事業主は建築確認申請などの手続きを済ませたという理由で、今年の4 月から強行に工事に着手してしまいました。」(同上ブログ「署名用紙」より)
 野村不動産といえば、テレビで「プラウド」という高級マンションの広告を行っています。この立地と環境条件から、宣伝している中でも特に高級な5つの都心のマンションに入るものだと思われます。
 こういうマンション建設反対運動は、大体どこでもそうですが、建設業者は法的な条件を満足させています。そうであれば自治体も口が出せません。幅広い住民に大規模な影響がある場合は、自治体が乗り出してくる例もありますが稀であって、条例などで規制は不可能なのが現状です。
 したがって、業者がいつ着工しようと自由です。反対する側は、生活環境、景観からの法律外の条件の話し合いにならざるを得ません。湯立坂のケースもその道筋を辿ったようで、現在、今までの遅れを取り戻すかの如く急ピッチで建設が進んでいます。


 正面の擁壁の向こう側の高い所に銅御殿が立っています。マンションとの至近の距離から日照や風害、水脈などの直接の影響が心配されています。しかし問題は、何よりもこの地区全体の景観に大きな影響を与えることです。土地の問題は、結局、すべてそこに行きつきます。
 市民がプライド(誇り)を持って住め、後世に引き継いでいこうと思う地域とは何だろうか、ということです。地域の景観、空間と歴史などの土地の由来から発生する遺産は、開発業者のプラウド(プライドの形容詞)になってはならない、マンション住民だけの“プラウド”ではない、こと。地域全体の財産、公共性がある――この考え方の欠如が日本の都市計画に思想的にも法的にも欠如していることが以前から指摘されてきました。
 NHKの首都圏ネットワークで報道された時の専門家の話しとして、ブログ「銅御殿の危機」http://www.geocities.jp/akaganegoten/に二つの例が出ていました。
 東京大学鈴木博之教授「都市ルールを整備していくことと、都市計画法文化財保護法の両方で協力していく体制を作ってほしい」。法政大学の陣内秀信教授「日本の都市計画ではエリア全体を守るルールが、特に東京のようなところにはまったくない・・・」。
 この問題は、形を様々に変えて各地に噴出しています。

 

マンション工事現場の反対側の丘。左の古い建物は放送大学。立替えで取り壊される。右下は水が湧く湿地帯。