筑紫哲也氏について

2月9日の新聞に「大好評 筑紫哲也」の書籍広告が出ていました。
 少し前に図書館に行ったら入口のディスプレイに、筑紫哲也氏の本が何冊かと新聞記事などが展示してありました。昨年秋に没後1年を迎え、いろいろな本が出版されていることからの企画だと思います。

 そういえば、新聞の出版広告の掲載から、昨年はずいぶん本が出たんだな、という記憶があります。調べてみたら『この「くに」の面影』(日本経済新聞出版社)、『若き友人たちへ』(集英社新書)『筑紫哲也』(朝日新聞出版)、『筑紫ジャーナル』」などがありました。
 若い人たちによく読まれているそうです。立教大学での木村秋則さんの講演にも、若い人たちがたくさん来ていました。社会や政治の変動を目の当たりにして、また自分の前に立ちはだかる苛酷な現実を前にして、それが何かを考えようとする若者がヒントを得ようと読んでいるのではないかと思います。この辺のことについてはたくさんの評論や発言があります。
 ここでは私が「筑紫哲也」と聞いて思い出すことをいくつか書いてみます。個人的にあるいは特別によく知っているわけでもありませんから大したことではないのですが、反射的に出てくることなので、私が印象深く思っていた、あるいは強い思いを抱いていたことだと思います。
 最初のことです。昭和56年、1981年ころ、ポーランドソ連との対立に直面しながら、ワレサなどによる「連帯」やいろいろな勢力が自由選挙による民主化を模索していました。ソ連圏崩壊の兆しが東欧から発生して広がる状況に、当時の世界の目がポーランドに集まっていました。
 こういう世界状況を反映して、世界のマスコミはポーランドについての記事や出版物を大量に流していました。日本も例外ではなく、当時の新聞・出版界にとって最大のテーマでした。私が所属していた出版社でも、緊急の出版として筑紫氏に原稿を依頼し、突貫工事で編集制作体制をとりました(工藤幸雄筑紫哲也ポーランドの道』)。
 校了近くなって、最後の校正を徹夜でしていたことがありました。確か午前3時か4時ころだったと思います。筑紫氏が確認を要することが出てきました。氏は電話をとって誰かに連絡をしました。深夜3時、相手は当然布団のなかです。就寝中済まない旨言って、確認の要件を伝えました。二言三言しゃべって済んだようです。
 これだけのことですが、私はその時、非常に驚きました。一流のジャーナリストは、何か分からないことがあったら何時であろうが、寝ていようが何をしていようが事実の確認をとるときにはとるのか、と。新聞の締切りの苛酷さ、刷って出てしまったらおしまい、という感覚が身についているのか、と思いました。
 すごいことだと思う反面、フツーの常識人としての私の感覚とのギャップを感じました。ご本人は外見からの印象と同じく、とても柔和な穏やかな方でした。30年前のことです。
 次は「自由の森大学」のこと。平成の6年ころ、筑紫氏が出身地の大分県日田市に生涯学習の組織を発足させ、地元のボランティアと運営する記事がよくマスコミに出ました。これが、氏が学長を務める自由の森大学で、各界の第一人者を招いての講演会などを行いました。
 首都から遠く離れた地で地域文化を築く動きは素晴らしいことで、日田市の市民は恵まれているな、と私は思っていました。しかしです。その一方で、こういうビッグネームに頼る、草の根ではない手法はどうなのかという強い思いもありました。刺激にはなるかもしれないが、市民一人一人の自己変革と成長につながだろうかと。地元の市民一人一人の発想が無い限り学長自身の事情に左右されることになってしまう。
 このような感想を持ちました。結局、同大学は平成18年に閉校しました。
 テレビに出演していたころ、あの短い時間の中でコメントをぴしゃりとまとめるすごさはいつも感じていました。が、その中身についての印象はあまりありません。おだやかな表情で繰り出す言葉は、現実を説明するには短すぎ、文字と時間の制限の中でのレトリックにエネルギーを注がれることで、言葉の力と説得の力は弱くなったのかな、と思います。
 図書館での企画展示をみて思い出した昔のことでした。