「見えてこない日高市総合計画」についてC氏の意見

総合計画についての4回の記事を読んで、C氏が感想を寄せて下さいました。以下にその全文を掲載します。私の言わんとすることもしっかりと踏まえた内容で敬服しました。


 “野良の風”というので、自身がおやりになっている自然農業やそれに関連することについて感じたことや気づいたことなどが綴られたものとばかり思っていました。
「見えてこない日高市総合計画策定」読ませていただきましたが、全くその通りだと思います。

先ず、「協働」について――

 文中に「協働」という言葉が何回か出てきますが、私は、この言葉を役所が使い始めて最初に聞いたとき、これは行政用語だな、と思いました。この言葉はあまり使わない。他にこれに関係の深い言葉に、協同(ともに心と力を合わせ助け合って仕事をすること)や共同(二人以上の者が力を合わせること。二人以上の者が同一の資格でかかわること。)という熟語があります。()内は広辞苑による。
 これに対して、「協働」という言葉は、同じく、広辞苑によると、「協力して働くこと。」とあります。「協力」とは、同じく、「ある目的のために心を合わせて努力すること」とある。欧文字では、cooperation(共同、合作、共同研究、協調、援助)と、collaboratoinがあり、役所は後者を当てています。
 また、cooperationを辞書で引いてみると、協力、共同(リーダーズ英和辞典)とあります。
 本質的に、この三つの熟語の意味は、大同小異で殆ど変わらない。わざわざcollaboratoinにした理由は何か。なぜこの言葉を使ったのか。この「協働」collaboratoinについて、市では何か定義していますか?
 私はこの市がいう「協働」collaboratoinを、次のように考えています。
 「協働」とはある目的のために、心を合わせて働くこと。“ある目的”とは、つまり、“役所が決めた特定の目的”を指していると思います。役所が決めたこれこれに協力(協調、援助)してください。全部をやらせることは、面倒で時間がかかるから、役所が推進するのに都合がよいところだけを、参加させる。

次に、市民参加とは何なのか――

 市民コメントにしても、審議会にしても、市民集会にしても、市民会議にしても、その他の方法にしても、この何れにするかは、市の機関(市民参加条例第2条)が決める(同第8条)わけだから、役所にとって都合のよいやり方を取ると考えられる。現に野良の風の「見えてこない日高市総合計画策定」の文章を辿るとその通りになっている。役所が勝手に決めて都合のよい所だけを、つまみ食い的に協力させる。これが、役所が考えている「協働」ではないか。
 そんなやり方で血の通った市政ができるわけがない。
 市民参加は、本来そのようなものではない。市民が課題ごとに役所とともに、場合によっては役所は援助の形をとって、同一の資格で、最初から、公平に参画し、議論検討し(一定の)結論を見いだすことにある。面倒であっても、時間がかかっても、そこにこそ意義がある。そうしなければ市民が納めた税金が生きない。作られたものが空念仏に終わるからだ。

総合計画について――

 例えば、「新たな総合計画の策定に向けて」で、戦略的な自治体経営を可能にする総合計画に四つの視点が挙げられています。本来なら、この第一の視点「戦略課題の決定」を抽出する前の時点から市民を参加させ、議論検討すべきです。
 つまり、「第5次日高市総合計画策定に関わる各種団体懇談会」に招集されたようなアンバランスなものでなく、公平に網羅された市内各団体の代表−この時点から参加させる団体を市民を含めた形で決めるようにすべきです。少なくとも市民は役人(役所)の部下ではないのです。
 この最も大事な第一の視点から市民を外してしまうと、後にいかに市民を参加させようが部分的な市民参加になってしまい、市民全体で議論検討したものにはなりえない。外部の、責任を取りえない会社に任せてそれを中心にするやり方では、真に生きたまちづくりには成りえない。もはや外部の会社が作った骨格に嵌め込むやり方から卒業しなければならない。
 日高市総合計画策定は、これからの市のまちづくりの根幹に関わるきわめて大事な問題であるはずである。役所と市民が一緒になって協同して進めなければならないものであって部分的な参加で終わらせるようなものであってはならない。
 問題は、外部の会社などを使うのを否定はしないが、外部の会社などを使えば、さすがに専門家だけあって総花的で恰好の良いものにはなろうが、その使い方を誤ると、形だけのものになって無味乾燥なものになり、地に足が付かない浮いたものになってしまう点だ。
 “なるほど素晴らしい。だけど市民の心がはいっていない。”“誠に素晴らしいが絵に描いた餅だ”では困るのだ。素人ではあっても真面目に市民が語り、議論し、検討して導き出した結論が生きたものになる。そうすれば共通の基盤が出来、市民もやる気が起こる。そうして出来上がったものが、生き生きとしたまちづくりになる。
 その課題や結論を導き出すための船頭役に役所や外部の会社などを使うのならよいが、枠組みを決めさせてしまうような外部専門屋への丸投げなら何の意味もない。
 役所は、市民参加条例を制定するに当たり、「市民参加」を嫌というほど体験したはずである。役所は、市民参加という面倒で時間のかかる作業から手を引いてはならない。進んでやらなければ市民が納めた税金は死に金になってしまう。

市民と行政――

 役所とは、(市民の)役に立つ所である。市民に貢献する所であって、その責務を負っている。市民から見て役に立たない所なら、不(要)役所になる。また、役人とは、市民の役に立つ吏員のことである。役に立たない吏員は要らない。役人は面倒で厄介なことでも市民のために進んでやらなけらばならない。そうではない
のだろうか。
 日高市役所は、新しくできた市民参加条例を今後どのように生かしていくのか。色々な手段は採りえるとしても、どのような手段をとるかは、市の機関が決めるのでなく、やはり市民を交えて決めるようなものでなければ、真の市民参加とはいえないのではないか。
 その意味において、市民参加推進会議は極めて重要な位置にあると思う。この進め方如何によっては、市民参加条例の見直しも含めて、市民参加を生かすか殺すかの大事な役目を担っているものである。
 協同(共同)の一番卑近な例がある。それは、大学公開講座日高ライブリーカレッジである。日高ライブリーカレッジが取っている形は、今、市が言っている「協働」ではない。大学公開講座日高ライブリーカレッジの募集案内では「協働」という語を使っているが、実態は私が勝手に上記した「協働」ではなく、「協同(共同)」である。
 その実態とは、この企画立案運営に当たっては、役所(担当窓口)を含む企画運営委員会が前年度に次年度の大体の骨格を決めて、予算措置は役所が計上するが、役所は市の状況説明や場合によっては希望は述べることもあるが、所謂、口出しは一切していない。金は出すが口は出さないで来ている。。企画運営委員長は開講当初から一貫して市民であり、企画運営委員会が主導して、主体的に行なっている。役所(公民館)は、主に講師依頼の折衝と事務業務を行なっている。二人三脚のような形だ。だから20年も続いてきているのかどうかはわからないが、一つの要因になっていることは確かであろう。これが協同(共同)ではないか。それでも存続の危機に直面したことはあった。もし役所が主導し、物事を決め、その実行に市民を働かせる形(これが市がいう「協働」であると思う)をとっていたら、20年も続いてきただろうか。

日高市に未来はあるか――

 先行きが非常に懸念されますね。これからの市の根幹に関わるもっとも大事なテーマにおいて折角役所と市民が一緒になってつくった市民参加条例の本格的な出番がないようでは、役所はほんとうに市民のことを考えているとは思えないですね。
 このようなやり方で市政を進めて行くのであれば、日高市に未来はありませんね。私は、山川や自然が良いので日高市に住んだのですが、もう日高に住んで24年になります。その間、市の行政改革に見るべきものがありましたか。私はないと思っています。
 元市長が名誉市民になるくらいですから、市民も含めた日高市の政治意識はどの程度かわかろうというものです。都市計画は調整区域の規制緩和の逸脱やその無責任さ、自然保護や景観維持の無関心さ、将来ビジョンのない、改革意識の低い市長、市議会の体たらく、役所の井の中の蛙。市民を含めみんな37℃のぬるま湯に漬かって惰眠を貪っているとしか思えません。
 日高市の役人や議員は市外に出て、研修や視察をしているが、それを市政に生かすことがことが出来ないなら、税金の無駄遣いになる。全額自己負担にすべきだ。
 昨日、12月の市長選、市議補選について話したのですが、市長の複数候補、市議の候補はどうなるのか。市長が無投票当選になるようでは、もう日高も終わりですね。
 こんな市政をして行き、改革の未来もないのなら、いっそ先日見てきた佐原(あの佐原でさえも合併したのですから)のように日高は飯能や川越と合併して、今までの為政者に大しっぺ返しを喰わせたらよいとさえ思います。ほんとうにこの市には自然以外には何の魅力もないですね。情けなくなりますね。