並木道の四季
街路樹の続きです。オブジェ風剪定によって、今年の街路樹の新緑はチョボチョボで、緑陰は小さく、秋の紅葉ものぞめないでしょう。その代わり、落ち葉は少なく掃く手間は省けるかもしれません。
超強剪定の背景
ところで、私が前のブログで書いた提案を出してからしばらくして、平成18年7月に、市建設課は、自治会に次のような街路樹の剪定案についての意見、要望を求めてきました。
○街路樹剪定の市の考え方
・1回/2年、強剪定(枝、高さ)
・1本/2本、間引き伐採(次回実施時)
・宅地への出入りに支障がある箇所については伐採
・安全上必要な箇所については随時強剪定(歩道面の突起等も予算の範囲内で随時補修)
・今年度、10月上旬には発注予定
この5項目の提案のうち問題は1番目と2番目です。第1は、2年に1回の強剪定の実施。これは従来と同じです。第2は、2本に1本の間引き伐採。2つ合わせると、2本に1本を伐採して、さらに残りのものについては、高さと枝の両方について強剪定を行う、ということになります。何の事はない、これでは、強剪定をさらに強化して、間引き伐採したうえ、さらに従来の強剪定を行うことです。
間引き伐採に限っていえば、私の提案と同じです。しかし、私はそれを行う代わりに残った街路樹については、弱剪定とし(普通の剪定が望ましいのですが、提案では弱剪定としています)、景観の復活を行うべき、としています。建設課が私の提案を採用したのかどうかはわかりませんが、これでは景観への配慮は全くありません。
建設課の提案についての説明会が行われましたが、私はその時、所用で出席できませんでした。後で聞いたところによると、伐採に関して反対の意見があって実行は見合わされた、とのこと。前回の剪定では、刈り込まれているとはいえ枝部が残っていたのですが、今回は完全に棒になりました。この超強剪定の背景には、こんな経緯も理由にあるのかな、と想像します。
役所としてはこの際、あわよくば大幅なコストカットになる伐採をやってしまえる、と踏んだのかもしれません。しかし、伐採を行うことについて、なぜコストカットが必要なのか、街路樹本来の役割と機能からどうなのか、説明がありません。それで、この超強剪定と伐採では、いくら何でも反対は当然でしょう。
象徴としてのオブジェ
街路樹をめぐっては、その効用についていろいろな議論があります。街路樹本来の機能から言えば、樹形を整えての維持が都市の景観を向上させます。しかし外観・美観の向上がすべての人のアメニティ、住み心地向上となるかというと、そうならないところがむずかしい。
住民は、景観重視・樹木愛好と清掃対策・刈込み重視の対立意見。
強剪定すれば前者から、剪定しなければ後者から苦情が起こる。
役所は、後者の対策に乗る形で、コストカットの強剪定を行う、一石二鳥だ。
結果は、役所のコストカットの理屈のみが実現する形でオブジェ化が進む。棒にしてしまっても、市民生活に何の支障もない。恒例となった強剪定を見て、今年は度が過ぎているなと感じても、どうということはない……。
これに慣れてしまうことが問題だと思います。公共サービスのいろいろな面でこういうことと同じことが起こってくる。「お金がない」という錦の御旗を掲げて。これを仕方がないな、と思ったら官のお導きで手を引かれることになります。結局、役所が作る公共が幅を利かすことになり、市民は本当の公共に目を閉ざすことになってしまうと思います。地方分権はこういう方向に行ってしまうこともありうるのです。
公共のコスト削減、それも金銭的価値で表される経費削減に目をうばわれ、またその逆の税収の面だけにとらわれると、私たちが地域で生きていく助けとなり頼りとなる市民のための公共の意義が薄れてしまうのではないか。オブジェとなった街路樹を見ると、象徴するものとしてそんな懸念を覚えます。
トウカエデの紅葉
並木道の景観の心地よさ、そして新緑をあおぎ、緑陰の下を歩き、紅葉に深まる秋を感じるのは、ささいなことかもしれないが私たちに必要なことです。あのオブジェは、もう並木道は不要という宣言の印をお金を使って作っているようなもの、もう根本的に考える時期かもしれません。一番よく分かっているのは、はさみではなくチェーンソーで“剪定”をしている植木屋さんかもしれない。
街路樹と言えば、昭和35年に朝日新聞社から出た『並木道』という本、私の愛蔵版です。あまりに大事にし過ぎて家のなかで行方不明になっています。ちなみに、ネットオークションを見たら1万円に近い値段がついていました。東京を中心とする各地の並木道を、ペン画の挿絵と文章で紹介しています。昭和35年といえば戦後も一段落、人々も並木道の季節を感じる余裕を持ち始めた時です。行ったこともない並木道の陽光を想像できて楽しい本でした。