環境行政の本質


 水質検査で有害物質が検出されないのは当然のことです。重金属等の有害物質が僅かでも出れば、濃縮によって人体への影響があるわけだから厳しく規制されていて出れば大変なことです。
 検出されなかったとしたら、ではどうなのか。法的に問うことが出来るのはこの点のみだとすると、他に問う根拠はあるのか。常識的には、廃棄物の不法投棄になるだろう。
 そこで、川越にある県の出先である環境管理事務所に行ってきました。廃棄物・残土対策担当です。
 結局、何も対策はないことが分かりました。不法投棄はあくまでも現場を押さえないとどうしようもない、埋められてからは手の施しようがない、とのこと。では、担当の仕事は何かと聞くと、電話で連絡を受けたら現場に跳んでいくことだという。
 今回の件について、何か対策があるのか聞くと、何を埋めたか聞いてみるとのこと。文書か口頭でか問うと、それは何とも言えないという。頼りないこと、この上ない。
 あれほど川の汚染が騒がれても、それは事業者の公共水域への排出の規制としての重金属等による有害物質関係の汚染だけなのです。それ以外の有機物関係の汚染は、環境全体に関する基準がありますが、罰則も何もない政策目標でしかない。川に何を流そうと有機物であれば問われないのです。
 だから日高市の産業振興課も「問題ないですね」という事になってしまって、役所の仕事としてはそれでいいのかもしれないが、あれほどきれいだった川のこの惨状を見れば重大な環境違反行為といってもいいのではないか。それも2度目である。企業の姿勢としても問われなければならないだろう。
 BODやCOD等の環境基準は、維持されることが望ましい基準であって、行政の努力目標です。したがって裁量の中でのさじ加減ということになって、部署の配置によっては事業者寄りになり得ることもあります。
 とすれば、その行政の努力目標を達成するためには叱咤激励しかない。そう、意義を唱えることなのです。黙っていては、「川は流れる、汚れようとも!」「いつかはきれいになります、放っておいて!」となるだけ。
 強力に意義を唱え、意思を表明すること、これしかない。行政を動かす動機を作ること、場合によっては強力な抗議運動となる。 
 全国に散在した歴史的闘争によって、命を脅かす重金属に対しては法の網の目が出来たが、清流に小便や糞を流しても、この文明国においては罪を問われないのです。この環境の法体系は開発行政の残滓を引きずっているのではないかと思います。学者はどんな研究をしているのか。
 地域を流れる河川は、風土、景観、住む人々の風水や心理をも決定づける生命線です。これが脅かされる重大事に市のトップをはじめ戦略会議のメンバーはどこまで認識しているのだろうか。
 古の昔に朝鮮からの移民の人々が住みついたのも、各地を転々として後にこの地を選んだのも、川と水なのです。特に朝鮮半島の人々は、家の前に小川が流れ、家の後背に低山があるのを風水の最高の環境としていました。
 いま、その歴史的、自然的価値が脅かされようとしています。女影に静かな怒りが広がっています。