ツイッターとコメントを書きにくい私(横山)のブログ

 今年初めに鳩山首相ツイッターが話題になってから、ツイッターの使い方や効用についいていろいろな議論が行われているようです。私も鳩山さんのツイッターに限っていえば、もっとやるべきことあるでしょ、という反射的な反応と、ツイッターそのものについては、マーケティングやコントロールの道具になる、ということを書いたことがあります。
 しかし、その後のいろいろな意見に接すると、いろいろな見方があるものだと、勉強になりました。ブログに書いた直後にタイミングよく、朝日新聞で「耕論 ツイッターは政治を変える?」という特集がありました。
 この記事は7面全部を使った大きな記事です。3人の意見を並べてあり分かりやすかったので、読んだときそのまま破ってとっておきました。最近、私のブログに関して、ある批評を頂いたときに、頭の中に蛍光灯がついたことがあり、この記事を思い出し読み返してみました。見当違いのことに反応して蛍光灯がついたのかもしれませんが、忘れないうちに書いておこうかな、と思ったわけです。
 この記事は朝日新聞1月24日に掲載されました。登場した方は、政治家として浅尾慶一郎氏、大学の先生が逢坂巌氏、メディアジャーナリストとして津田大介氏。
 3人の意見は、新聞の編集者がいい見出しを付けているので、それを紹介すればほぼ分かります。「生の声、選挙変える可能性」(浅尾氏)、「リアルな接触ない危うさ」(逢坂氏)、「伝播力強い新なた拡声器」(津田氏)。
 3人の中で逢坂氏が「対話のメディアというよりマーケッティング、監視社会の道具、仕掛けたつもりで利用される怖さ」などという言葉に表されるように、学者らしく批判的に捉えています。
 浅尾氏は「政治家は有権者の声を聴くチャンネルを数多く持つことが大切、ツイッターも今のところ、有権者とつながるチャンネルの一つ」としています。津田氏は「政治家も有権者に見られているという緊張感、首相執務室のモニターに国民の声が絶えず届くのは悪くない」とし「拡声器」と同じレベルの道具として見ています。
これらの意見を読んで、一つの道具としての可能性はあるのかもしれないな、と思いました。
 あくまでも「道具」として見ればいいのかもしれません。道具であれば流行すたりの結果、消えたり残ったりするでしょう。本当に価値あるものであれば、残っていくと思います。道具ですから当然、一人ひとりで使いこなしがあり、どういうメディアを使うか、反応するかは評価が何であろうと、個人の好みということになります。
 そういう意味で感心したのは津田氏の意見です。「(ツイッター)で『私はつぶやかない』というのは『拡声器を使わない』というのと同じで批判としてはナンセンスだ」。なるほど、これは分かりやすい。
  新しいものが出たときに効用や目的を詮索しても、その後の実態が大きく変わるということはよくあります。出版でも、これは当たると見て出したのが惨敗、学者の固い学術的な本など売れるはずがないと出された本がベストセラーになった、ということは枚挙に暇がありません。
 さて私の蛍光灯が付いたのは、「140字という短い言葉で反射的に書き反応する」──このことです。「チャンネル」と見る浅尾氏も、「道具」として見る津田氏も、この短さと即応性を高く評価しています。
 ??……
 この点に関して?を付けるのは、そのことの別の側面を私が感じたからです。
 また、あるテレビ番組を見ていて、その別の側面についてさらに強く思ったことがありました。
 そして、私のブログに関して、ある批評を頂いたときに、頭の中に蛍光灯が付きました。
 これらのことを関連付けて、読んで分かるようにするには少し頭の整理が必要なようです。ここまで書いて、付きかけた蛍光灯はチャンとつくのかどうか消えてしまうのか、気になり始めました。(続く)