典型的な農薬論争

 農業団体の会合で2日間山梨へ行ってきました。以前は、雁坂峠を越えてトコトコと行ったものですが、今回は時間がありません、高速で行くことにしました。圏央から中央高速へ入るのは今回が初めてです。早いこと! ちょうど2時間で目的地到着。
 今回の会合で、典型的な農薬論争がありました。これが一番おもしろく、興味深いことでした。
 発端は、代表者の無農薬栽培に関する発言でした。この方は、果樹の無農薬栽培で有機農業界ではよく知られた人です。木村秋則さんが有名になるはるか以前から完全無農薬栽培を実行し、それを原料とした加工品も製造、製品の品質の高さは有名でした。
 木村秋則氏もさることながら、この方はもっと知られてしかるべきと思うのですが、マスコミの潮流に乗らないと伝播しないのが実情です。果樹の専門栽培業界でも、無農薬、無化学肥料栽培は極めてむずかしいことは常識で、取り組もうという意欲はなかなか広まりません。技術も公開しているにもかかわらず、この方の後に続く人が排出するという状況にはないと、私は理解しています。
 木村秋則氏があれほど騒がれて、社会の頭と行動の流れがそちらに向かう気配になってきたので、農協組織と慣行の呪縛に無縁な若い人が取り組むようになればいいと思います。経営面についても、地産地消で自分のお客を開拓できるようになり、規模を拡大しなくてもやっていけるようになってきました。
 さて、この代表者が自らの無農薬栽培・無化学肥料栽培について語っていた時、会場から「自分の考えを押し付けるな」という声がありました。一瞬、会場は凍りついたような印象でした。
 代表者は、私が見るに、理論と実践のバランスがとれた方で、農業者としてはなかなか見ない言葉の表現力も極めて優れた方です。その方に異例な形で異論がぶつけられました。その方を、仮にA氏とします。
 A氏は最近、会社を退職した方で新規就農者です。会社に勤務している時から、農業に極めて熱心な方で会合には必ず出席されていました。また数年前、東京から離れた地方に、農業者の資格を満たす農地を一度に購入しその後も拡大するなど、万全の体制を着々と整えてきました。私の周囲を見渡しても、これほど周到に新規就農を熱心に精力的に実行し実際に栽培を行っている人は、すぐ思い付かない程です。理論にも詳しく実践力も豊かで、私は敬服していました。
 そのA氏の発言です。
 A氏は世界的に有名な、というより世界市場を分けるシェアを持つ(と私の知識は反応するのですが)超高名な化学会社の研究者でした。研究者ですから学者であると言ってもいいと思います。以前語ったことによると、極めて有力な製品を新規に開発し会社に貢献したそうで、農業界にも貢献したのではないかと想像します。確か名刺に「Dr.」があったように記憶しています。
 そのような実績のあるA氏ですから、農薬否定は自分を否定されるような思いを抱いたのかもしれないことは容易に想像できます。以前から、安定的農薬の効果と自然界への無影響について語っていました。今回も、そのことについて短く触れました。
 代表者は自分の言葉をさえぎるA氏の発言に、それをさらにさえぎってこう答えました。
 「農薬を否定しているのではない。自分の経験を語っているのだ」と。
 いくらかのやりとりの後、別の人が発言しました。この方も有機農業界では知らない人はいないほど有名な人で、齢を重ねているにもかかわらず、お独りで全国を飛び回り後進の指導と啓発を行っています。
 私も何回も親しく話したことがあり、含蓄のある言葉とやさしさ溢れる表情が独特の魅力を発しています。果樹や畜産、野菜など農業のあらゆる局面での無農薬栽培と製品化を目指した先覚者で、消費者団体からも国の行政からもその知識と経験について大きな信頼を持たれています。仮にB氏とします。
 そのB氏が発言しました。誰もが固唾を飲んだと思います。大要こんなことでした。
 「自分はバカでひたすら経験観察するしかなかった。それによれば、家畜は農薬が播かれた草を食べない。農薬を撒いた草原に野うさぎは生きない」
 もっと言葉を費やしたのですが、穏やかな小さめの声だったので聞き取れませんでした。それに対して、A氏はこう反論しました。大要こんな内容ではなかったかと思います。
 「それがどうして農薬を使わないことがいいんだということになるのだ。うさぎがいないことと農薬を使うことが、どうデータで因果が証明できるのだ」と。
 もっと言葉のやりとりは多かったのですが、大体、議論の本筋は以上のようなことだったと記憶しています。これは、無農薬や有機農業の根拠に関する感情を伴う典型的・古典的な論争です。
 無農薬農業は、自然との対面をしながら自然の摂理を学び追究しながらの、感覚と経験の世界です。気候は1年限りの試行錯誤の機会を提供するものでしかありません。実験で語れる部分は極めて少ない、データで語れる部分は極めて少ない。自然の真理と創意・工夫の技術の無限の組合せを、観察と経験で追究してきた数少ない人が、無農薬を語れる資格があります。いまその人たちが、地球と世界の行き詰まりを直感的に感じ始めた社会から目を向けられ始めました。
 この農薬論争は無農薬栽培の歴史のなかで繰り返されたことで、先覚者はみなこの批判を受けてきました。前回書いた趙漢圭氏の言葉をもう一度。
 「農民たる者は言葉で語るな。ただ自然の観察あるのみ。自然を作物を動物をひたすら観察することで農民の道は開ける」。この発言の背景には、農業関係のの学者、研究者から無視、批判されてきた背景があります。データで実証できないではないかという反論。これに抗し惑わされずに進んできた先覚者の「観察」という言葉の重みがここにあります。
 しかしこの言葉を実態で理解することの道のりの険しさ。10年かじっただけの私ですが、この言葉の意味を理解しようと小さな試行を繰り返しています。しかし先覚者の知識と経験を体系化しようという努力は続けられ、若い人にも踏襲できる知的経験的基盤が作られつつあります。
 先覚者の考えや経験、最近の動向については、私なりの理解をもっと書きたいところですが、今日はここまでにします。