及川和男著『イーハトーブ通信』と“水稲王”高橋長作のこと

 友人が本を持ってきてくれました。及川和男著『イーハトーブ通信』1992年、新潮社刊。
 この本の前に前段の話があります。まちづくりの勉強会で米作りの話になった時、この友人が中国で稲作を指導した有名な日本人がいるが、この人物は誰だったか、ということでした。その時は分からず、後で、この本に出ていたと言って持ってきてくれたのでした。併せて、この人物の米作りの方法が私の関心を引くのではないかと。
 及川和男氏は岩手県一関市在住の作家で、農山村を取材した丁寧かつ温かな文章のノンフィクションを書いています。「ですます」調の文体と取材の対象の人物たちの特徴が調和して、心に沁みわたる、じわっとくるものを感じさせてくれます。

 この本は、私が抱いている関心のいろいろなことを関連付け、想像力をかきたてられました。考えが再構築・再確認され連関したつながりと輪ができていくような感じを持ちました。それらのことについては、いずれ書くことにし、まず米作りのことについて。
 中国で有名なその米作りの指導者については、この本の「第三信 水稲王」(本の題名が「通信」だから第三章ではなく第三信)、約80ページにわたって書かれていました。その人の名は、藤原長作。
 思い出しました。藤原長作氏についてはかつて何かで読んだり映像で見た記憶があります。及川氏もこの本とは別に、高橋長作氏にのみ焦点を当てた本を書いています。またNHKでドラマ化されています。
 藤原氏は、岩手県沢内村(合併で現西和賀町)出身。昭和31年、この豪雪寒冷の地で米作日本―になったことで日本中を驚かせました。創意・工夫の積み重ねで寒冷地に適した栽培法を編み出し、何と10アール当たり10俵以上の収穫をあげました。
 変人扱いされながら、また苦難と闘いながら藤原氏は情熱一途の人生をどのように歩んだのか。またその情熱を孤軍奮闘で中国にぶっつけ、その栽培法がどのようにして中国で成果をあげたのか。関心ある方は、是非、本を読んでいただきたいと思います。絶対不可能を覆し無農薬リンゴの栽培に成功したあの木村秋則氏(『奇跡のリンゴ』の著者)の「偉大な奇跡」と共通するものを感じます。
 ここでは、藤原長作氏の稲作についての記述をとりあげ、浅いながらも私が自分で経験したこと、理解したことと比較しながら簡単に書いてみます。
 「そんなに追肥をやる必要はない、窒素が多すぎはしないべか、基肥……」


 今この文章を書いている時、付けたままにしてある後ろのテレビで、NHKが『1962年キューバ危機』を放映し始めました。ある番組での回顧としてです。これは見逃せない、テレビに首が回ったままになりました。
 あの時(中学3年生)、ミサイルを積んだソ連の輸送船がキューバに接近し、核のボタンが押される危機が刻々と近づく状況を知らせるラジオの前にかじりついていたことを思い出しました。
 書く手が1時間止まりました。


 「そんなに追肥をやる必要はない、窒素が多すぎはしないべか、基肥をしっかりやればいい。そんなことをしたらイモチ病にやられる、こんなに密植するのがよくない」(151頁)。
 言わんとするところは、肥料のことよりも密稙です。この後に、著者の解説で、彼は線香みたいな苗を田植え機で植えるやり方に反対なのです、と書いてあります。
 これは私も経験上、よく分かります。健康で丈夫な苗を30センチ以上に離して手植えすることが一番いいと言えます。そうすれば、一本一本の茎が太くがっしりとし、その先に付く実も大きくなります。
 田植え機を使うと、最新型は別ですが、一般的には1、2本植えの調整が難しく、どうしても一度に植える本数が多くなってしまいます。
 そしてよく見かけるのは、植え幅を狭くして全体で出来るだけ多くの苗を植え、たくさんとることを目論むことです。弱い苗を機械で密稙してもかえって病気を発生させるし、全体としては収量は増えない、ということを藤原氏は健康苗の疎稙で証明したのです。
 私の場合の「健康で丈夫な苗」というのは、肥料に頼らずとも成長していく自然の中での力強さを持っているということです。外見的には、針のように葉がツンツンと尖った状態で、決して葉先が垂れ下っていないことです。
 「稲作りは何といっても全部の条件が揃わねば、なかなか思うようにはいかないものです」(179頁)
 これだけ創意・工夫の鬼のような人であっても、この言葉です。天候しかり、水の状況しかり、技術も自分の田の条件をよく把握しないで真似をしてもダメだ、ということです。
 「機械代を払うために出稼ぎをする農民の姿に腹をたてました。特に、田植え機を認めるわけにはいかなかった」(183頁、著者の解説)
 「耕運機もいい、稲刈り機もいい、しかし田植えだけは手ですべきだという持論を繰り返す。『機械で植えても人間が補稙する手間を考えれば同じ。問題は何といっても線香苗だ。こんなに密稙してはイモチになる』」(199頁)
 「ほんとは葉先がピンとしていなければだめなんだ。垂れた葉の苗に追肥をやる、薬をまく、そうすると稲の成長のリズムが狂う」(199頁)
 以上の引用の文章から分かるように、藤原長作氏が特に否定しているのは、線香苗と田植え機です。これは本当によく分かります。藤原氏と比べるのもおこがましいのですが、私が目指しているのも全く同じです。違うのは肥料のこと。藤原氏はプロとして多収のための肥料設計を厳密に行っています。
 藤原氏の主張する方法がいいというのは、有機・無農薬でやろうとする人、あるいは通常の慣行農法でも研究熱心な人は、みな知っています。
 しかし、ご自身も言っているように、藤原氏の時代は農家1戸当たり平均8反。手植えでやれる範囲としています。しかし現状はどうか、時代はどんな方法であろうと大規模化で採算をとる流れです。
 「健康苗」については、これはもう常識となっています。しかし「田植え機無用」は実情と合わなくなっています。高齢化、後継者不足、能率などの稲作を取り囲む状況を見れば、これは無理なことです。もちろん規模に応じてやればいいことですが、一般的ではありません。
 そこで、藤原氏の考えを田植え機を使うことの中に取り込む試みが行われています。以下は、私の乏しい見聞による解釈で間違っているかもしれませんが。
・タネまきをする段階で一粒一粒播き、苗もそれに応じて一本一本ずつ植えることができる仕組み。これは関東などではあまり見られませんが、西の方で多く採用されている現行のシステムです。育苗の道具から田植え機まで機械の体系が異なります。
・現行の田植え機で一、二本づつ植えられるよう調節可能にすること。最新の機械のことはよくわかりませんので、どこまで可能なのかわかりません。しかし苗を育てる仕組みが従来通りなので、コントロールが徹底しないのではないかと思います。
・苗を育てることから田植え機まで、徹底してシステム化して藤原氏の思想に近づけること。つまり、健康苗を田植え機を使って一、二本植えと疎稙が可能なようにすることです。これによって大規模でも有機・無農薬栽培を可能にし、おいしいコメをつくって自由化に備え、国民のコメ消費を国内産に向けるというものです。
 この実践が、私も出席した、小川町で開かれた有機稲作講習会での育苗と田植えの技術だと思います(http://d.hatena.ne.jp/hideoyok/20090409/p1)。
 藤原氏の考え方は、発展した形で生きていくと思います。以上、私の乏しい経験と知識で書いてみました。
 

 藤原氏が米作日本―になったのが昭和31年。その1年後の昭和32年藤原氏が住む沢内村で、老齢者と乳児に対する無料医療を実施し、平均寿命の延長と乳児死亡率ゼロを打ち立てた「生命行政」がスタートしました。日本の福祉の原点とも言われる沢内村の生き方とそれを受け継ぐ西和賀町については、私も大いに関心を持っています。この流れを振り返り現代的意義を問うドキュメンタリー映画ができ、上映活動が行われています。日高市で上映したいと思います。