NHK戦争証言番組を見て

 ここの所NHKテレビでは、戦争の証言を集めた番組が多く組まれています。夜7時のニュースに続く番組が戦争回顧特集として連続番組になっています。戦後64年、戦争を経験した人たちが少なくなっていき、証言記録の発掘は重要な課題になっています。
 今日14日は、「忘れないで私たちの戦争 中井正弘が聞く過酷な戦場からの証言」で、その内容はこうでした。
 ・少年兵たちの地上戦
 ・初めて妻に語る真実
 ・見捨てられた兵士
 ・密林の飢餓地獄
 記憶を語る言葉に当時の映像記録が重なります。こんな愚かな行動になぜ至ってしまったのか? 戦争記録を見たり読んだりすると、この疑念だけが湧きおこります。
 ある中隊長の発言と妻の証言。
 200人の部隊で生き残ったのは4人。自分も顔から首に銃弾が貫通したが運よく帰還できた。彼はその後今日まで、突撃の命令を下して死んでいった兵のことを思いその事実を背負いながら生きてきた。遊行をひたすら拒み、温泉に行くこともよしとしなかった。
 部隊の戦闘と兵の戦士状況を記録した膨大な冊子を繰りながら話す様子に、決して記憶を風化させてはならないという決意を感じました。NHKの取材を受けて3ヵ月後、亡くなったそうです。
 言葉では表現できない戦争の記憶、語れば封印してきた悪夢がよみがえる――しかし死を間じかに感じる今日に至ってようやく思い口を開いたのでした。
 沈黙して聞くしかないそれらの証言に思うのは、やはりなぜ戦争に突き進んでいったのか、という疑問です。「敷かれた道を行くしかなかった、このことを言っても今の若い人には理解できないだろうが……」。一兵卒、一市民としてはその通りだと思います。
 戦争責任について、組織の責任について、歴史としても文学としても、学問としても多くの追求が成されてきました。過去の分析の中に真実を求めるのは当然のことであり、私もそれらの成果をいろいろ読んできました。
 しかし最近思うのは、私たち自身の中にある“何か”です。そう簡単に結びつくものではないでしょうが、言葉や分析では及ばない“何か”とは何なのか。出演していた五木寛之氏は、当時の作家、文学者がこぞって戦争礼賛に走っていたことを語っていました。
 数日前にやはりNHKで、特攻についての特集番組を放映していました。その番組は、海軍の将校生存者が開いている「反省会」(確かそういう表現であったと思います)で出た発言をもとに、構成されていました。
 「特攻」について、彼らはどう反省しているのでしょうか? そこには、驚くべき反省がありました。
 「人間の命を粗末に扱う作戦には、自分は反対であったが、海軍にはそれを言ってはならないとする沈黙への了解があった」。
 メモを取らなかったので、「沈黙」の前後に付いた言葉は忘れましたが、要するに、多くは多かれ少なかれ、特攻作戦に反対であったが、それを言ってはならない、あるいは言わない方がいいとする暗黙の空気があった、ということです。そして、その沈黙のなかで作戦の実施が進み、多くの若者が死んでいきました。
 私はふと思いました。社会や組織の底に漂う気分としての沈黙は、現代でも同じではないかと。企業にも地域社会にもそのような気分があることを感じます。ものを言うことに対する抵抗感、沈黙を良しとする重石のようなものが「敷かれたレール」を作っていくのは同じではないかと。私たち自身の中にある“何か”はこの辺にあるのではないかと、いくつかの戦争回顧番組を見ながら感じました。

 私はこれらの番組を、92歳の母親といっしょに見ました。父の出征前後と帰還の前後のことは何回か聞きましたが、今回新しく加わった話もあります。
 父から聞いていた話も含め全部の話をつなぐと、結局、現在の私が在るのは、いくつかの偶然が重なった結果であるということです。赤紙が来て行き先も告げられずに翌日慌ただしく出立したこと、しかし配属先部隊で馬に蹴られ負傷、治療で当初の行き先とは違った満州に送られたこと、ソ連との国境警備の当地では過酷な訓練であったが実戦には参加しなかったこと、満洲から南方戦地に送られた部隊も多かったが免れたこと、ソ連参戦の直前に帰還に着いたこと。
 父は80を過ぎてから、何か書いていたことを覚えています。書こうと思ってもなかなか文章には、と言っていたので、まとまって書かれたものは見つかりませんでした。しかし記録を残そうという意欲はあったことは確かです。 
 十何年か前、飯能の某家の当主が話してくれた戦争の証言を思い出します。証言だけではありません。その方は戦地での記録を書いていました。あの分厚い原稿の束はどうなっただろうか。
 どんな形にしろ、記録や証言をを引き継いでいかなければならないと思います。