ポール・ポッツよりすごい人が現れた

 昨夜はユーチューブを見過ぎて疲れてしまいました。「世界5000万人がアクセス、一躍スターに」なったスーザン・ボイルさんです。
 ニュースを見ようと何気なくテレビをつけたら、ポール・ポッツがデビューしたあのイギリスの人気オーディション番組「Britain 's Got Talent」。おっ、またかと思ってテレビにかぶりつくと、今まさに歌う直前のやりとりの最中です。今日の舞台には、いかにも素人っぽいおばさんがいました。
 名前は「スーザン・ボイル」。審査員のサイモンが例の皮肉っぽい調子で質問する。年齢を聞かれると「47歳」と答えながら太めの体をゆさゆさとゆらしました。そして「そんなの私の一面にすぎないわ」と。会場にはもう冷笑が漂っています。
 こいつは面白い。表情や仕草もユーモアたっぷりだ。品があるというより素朴な感じです。
 「あなたの夢は?」
 「プロの歌手になることです」。
 あきれた聴衆の表情。
 「なぜ、今までなれなかったの?」
 「チャンスがなかった。でも、ここで変わるかも」
 「歌手になれるとすれば誰になりたい?」
 「エレイン・ページ」。
 また聴衆のあきれた表情が。エレイン・ページは、イギリスの世界的に有名な歌手・女優で、言ってみれば「美空ひばり」のような存在でしょうか。
 そして音楽OKの合図をスタッフに出して歌い出します。曲はレミゼラブルより「夢に破れて」。
 歌い出してすぐサイモンの眉毛がぴくりと動き、アマンダが小さな声を発しました。そして歓声と拍手が会場にあふれました。最後まで歌い終わるまで、万雷の拍手が続きました。
 すごいことです。無名の歌い手のわずか一小節が人々の魂を揺り動かしました。同じ言葉を操るのでも演説でこれだけの喝采を得ることは先ずない。権力や宣伝の催眠剤で酔わせてもない、拍手はあっても偽りか悪い酒によってのものしかない。
 歌の力、人間の声のもつ魔力に感動しました。曲の特徴のことはどう表現していいかよく分かりませんが、歌詞がよかった。誰にでもあり得る「夢に破れて」打ちひしがれる可能性に思いを馳せながら、その恐れは美しい声によって癒され、わが身の小さな幸せと人生を祝福したくなる。
 歌い終わってすたすたと袖に向かって歩き出すが、審査員に呼び戻されます。この番組の3年間で最高のものに出会えたという賛辞と、最高の評価での合格を貰って感涙にむせぶと思いきや、彼女は床を足で踏みならし、ガッツポーズ。素朴で愛嬌のあるお笑い芸人のような笑顔を振りまき、会場に投げキッスをしながら舞台を後にします。何という役者! この引き際の様子に観衆はさらに大拍手です。
 スコットランドの町に住み、猫といっしょに暮らしている47歳の独身女性、スーザン・ボイルさんは、4月10日以来、引きも切らない世界からの取材に遭遇することになりました。その取材の成果や歌を、テレビでどんどん放送してほしいものです。美しい声とあの明るい人柄から生きる希望を何度でもいただきたいものです。
 今日の朝日新聞天声人語」もこの話題です。その中の一節。「張り巡らされた網の中でいま、人はたやすく名声を得れば、たやすく忘れられ、時折たやすく汚名を着せられもする」。
 そうではないと思う。あの美しい声は自然の賜で、人間の作為の所産ではありません。名声と忘却と汚名は、美辞麗句と作為の演説と修飾にまみれた作文にあります。私たちはそれを見破る必要があるが、美しい声にはただ酔えばいい、ただ心奪われるままになればいい、と思うのです。

 http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0「歌は心【完全版】/スーザン・ボイル──Susan Boyle(日本語字幕)」
 ユーチューブはこれが一番いい。舞台の前後の様子もおもしろいです。