もう一人の“無謀”登山家

 ある日の新聞に、以前テレビで見て驚いて記事に書いた若い登山家のことが出ていました。無酸素登山で世界7大陸の最高峰を目指す栗城史多さんです(http://d.hatena.ne.jp/hideoyok/20100108/p1)。
 テレビを見た時は、7大陸の最後の最高峰エベレストを目指した無酸素登山でした。その時はあと一歩のところで頂上に辿り付けず失敗してしまいました。その状況については、身につけたハンディカメラで撮った映像がインターネットを通じて放映され、無酸素で登る苦闘振りが刻々と伝わりました。
 登頂に失敗した後、再挑戦への希望を語っていました。新聞は、その再挑戦を目指す資金集めのため、東京でスポンサー捜しをする日々を伝えていました。
 栗城史多さんの無酸素登山には、死と隣り合わせの危険が伴う時間を同時進行で共有する緊張と興奮と面白さがありました。恐怖と疲れの息遣いやつぶやきを、現在進行で視聴者が感じ、耳にするというのは初めてのことでした。
 しかし、です。それとはまた異なる、驚きの登山家が登場しました。朝日新聞1月22日、今田幸伸記者ののインタビュー記事。このインタビューはとても面白かった。

 服部文祥さん、40歳。「一丁の鉄砲を担いで厳冬の三千メートル峰に登る」
 鉄砲で鹿1頭を仕留め、その肉を食べながらの8日間の雪中踏破。
 テントやコンロ、燃料を持たず、アイゼンもピッケルもなし。
 米と調味料と砂糖と調味料だけ。
 自分の身を文明の利器で守りながらの登山ではなく、自然の危険と遭遇するのが当然のこととする“サバイバル登山”。服部氏は自分の登山のスタイルをこう呼んでいます。
 自分の生存を守る道具を排し、できるだけ動物と同じリスクにさらして平等の条件の中で生存を追求する、その中で鹿を鉄砲で撃って食べ、生存を計る。
 鉄砲をつかうことについては、狩りをするという人間の本能の現われを具体化するものとして折り合いをつけようとしていますが、そこの妥協から「肉を食うこと」についての思索が始まります。
 金をかければ可能となる高峰登山。服部氏がヒマラヤのK2登山を経て見出した登山の方向は、山の中で生存を完結させるサバイバル登山でした。
 水や食料や住居など人間の生命維持のための原料も仕組みも装置も、みな当たり前のこととして意識すらしない私達が、突如、そのことの意味を問われる非日常性を突きつけられると新鮮な気持ちになります。
 栗城氏は無酸素と言う自然の中に身を投じたが、無酸素以外は自然から身を守る最高の道具で固めました。服部氏は狩りの手段として鉄砲という生存の道具を使いましたが、その他は自然の中に身をさらしました。
 自然のリスクとは縁遠い所にいる私たちの中に、彼らの“無謀”の行動を見ることで、惰性で鈍くなった自然への感覚が目覚めるのかもしれません。
 服部氏のこんな発言に共感を感じました。
 「独りで自然のシステムに入り込むうえで本当の制約となっているのは、自己表現欲なのかなと思います」。同感です。しかし服部さん、そう言いながらあなたは、『狩猟サバイバル』という本を出すんですね。それほど、自己表現欲の誘惑を克服したり絶ったりするのは難しい。私も、こんなブログを書いているんですから同じです。
 ここで別のことを思い出しました。
 私の自然農業の先生である趙漢圭(チョウハンギュ)氏のこんな言葉をよく覚えています。
 「農民たる者は言葉で語るな。政治に入っていくな。ただ自然の観察あるのみ。自然を作物を動物をひたすら観察することで農民の道は開ける」。大要こんなことであったと思います。韓国での自然農業研修のときであったか、どこかで行われた研修のときであったか忘れましたが、言葉だけはよく覚えています。